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浅井家
浅井長政 あざい ながまさ (1545~1573) 浅井家
北近江の戦国大名。浅井家3代当主。久政の子。正室は織田信長の妹・お市。父・久政の代では南近江の六角義賢(承偵)に臣従していたが、それに不満をもつ家臣たちに推されて父に反旗を翻し、野良田の戦いで六角義賢を破って独立への道を開いた。その後、共通の敵・美濃斎藤家をもつ織田信長に接近し、親密な関係にあった朝倉家との不戦を条件に、信長の妹・お市を正室に迎えて同盟した。しかし、上洛を果たした信長は朝倉家を攻撃。久政をはじめとする反信長の重臣たちを抑えきれず同盟を破棄した。金ヶ崎の退き口で信長を討ち損ない、朝倉家と共に挑んだ姉川の戦いでは織田・徳川連合軍に敗れる。その後、足利義昭の呼びかけで信長包囲網の一角を担って信長を追い詰めることもあったが、包囲網の要であった武田信玄が亡くなると、次第に劣勢になり、居城・小谷城を攻撃され自害した。
浅井亮政 あざい すけまさ (1491~1542) 浅井家
北近江の国人。戦国大名としての浅井家初代。北近江の守護・京極高清に仕えていたが、高清が長男・高延を差し置いて次男・高吉に家督を継がせようとすると、他の国人たちと反発して高延を支持し高清、高吉を追放した。当初、高清に反発した国人たちの盟主は浅見定則だったが、定則の専横が目立つようになると、高清を復帰(高吉も帰参)させて定則を失脚させ、定則に代わって国人たちの盟主となって主家を凌ぐ権勢を手に入れた。この頃から南近江の六角定頼と争うようになり、1538年に高清が亡くなって高延が家督を継ぐと、高吉が定頼を後ろ盾として挙兵におよび苦戦を強いられた。この苦境を粘り強く戦い、定頼に対して事実上降伏といえる和睦となるが北近江における地位は維持した。だが、今度は六角家との和睦を良としない高延に叛旗を翻され、これを解決でいないまま病没した。
浅井久政 あざい ひさまさ (1526~1573) 浅井家
北近江の戦国大名。浅井家2代当主。父・亮政は主君・京極高延を傀儡として勢力を拡大し、南近江の六角定頼と戦ったが、最後は定頼に降り、死の直前に定頼に降ったことを良としない高延に反旗を翻されるなか亡くなった。若年で家督を継ぐことになった久政は、高延に抗しきれず和睦し、定頼死後に六角家と戦うが定頼の跡を継いだ六角義賢(承偵)に敗れ臣従した。嫡男・長政が成長すると、六角家に臣従していることをよしとしない家臣たちが長政を擁立し、長政が野良田の戦いで六角義賢に大勝すると隠居させられた。しかし、その後も権限は維持し、織田信長に対しては、反信長の姿勢を貫き、結果それが仇となって居城・小谷城を攻められ自害した。
赤尾清綱 あかお きよつな (1514~1573) 浅井家
浅井家臣。亮政、久政、長政と浅井家3代にわたって仕えた重臣で、雨森清貞、海北綱親と共に「赤海雨三将」と呼ばれた。歴代当主からの信頼厚く、小谷城内に赤尾曲輪をもち、居館を設けて在番していた。長政の将器を高く評価し、長政を当主にするため、遠藤直経らと共に久政に隠居を決意させている。織田軍に小谷城を攻められ、落城寸前になると、長政は赤尾屋敷を訪れ、そこで自害した。清綱は不本意にも捕らえられるが、信長はその忠義に対して自害を許し、切腹して果てた。
阿閉貞征 あつじ さだゆき (1528~1582) 浅井家
浅井家臣。近江山本山城主。浅井長政に従い姉川の戦いに参戦した。敗戦後も山本山城を守り織田勢を撃退するなど活躍していたが、1573年に信長の調略に応じて小谷城落城のきっかけを作った。本能寺の変後は明智光秀に加担し、羽柴(豊臣)秀吉の居城・長浜城を占領。その後は山崎の戦いに参加したが、敗戦後に捕縛され処刑された。
雨森弥兵衛 あめのもり やへえ (?~?) 浅井家
浅井家臣。赤尾清綱、海北綱親と共に「赤海雨三将」と称されたうちのひとり。諱は清貞。久政時代に奏者として重用され、戦でも各地で活躍した猛将といわれるが、資料が少なく、諱が清貞であったこともはっきりしていない。浅井家滅亡後、一族は離散し、対馬藩、松江藩、土佐藩などに仕えた。
磯野員昌 いその かずまさ (1534~1590?) 浅井家
浅井家臣。佐和山城主。浅井四翼のひとり。娘は小堀政一(遠州)の母。六角家との戦いで数多くの武功を挙げ、浅井軍の先鋒を任されるようになった。姉川の戦いでは「姉川十一段崩し」の逸話が残るほどの猛攻を見せ、信長本陣まで迫ったが、朝倉軍の崩壊と味方の援護を得られず撤退した。敗戦後、佐和山城をよく守ったが、援軍を得られず、降伏して織田家臣となる。その後、信長を狙撃した杉谷善住坊を捕縛するなど活躍したが、信長の勘気にふれ出奔した。信長の甥・信澄を養子としていたが、信長の命による信澄への家督譲渡を拒んだためといわれる。
遠藤直経 えんどう なおつね (1531?~1570) 浅井家
浅井家臣。長政の傅役的存在で、家中でも猛将として知られた。赤尾清綱らと共に長政を当主にするべく久政に隠居を迫ったひとりでもある。早くから織田信長の才覚に気づき、早い段階での暗殺を進言したこともあるという。逆に信長との同盟を破棄する際には、時期を逸したとして反対した。姉川の戦いが信長を討つ最後の機会と考え、討死した味方武将の首を掲げて味方を装い織田本陣に乗り込むが、見破られて討ち取られた。
海北綱親 かいほう つなちか (1509~1573) 浅井家
浅井家臣。赤尾清綱、雨森弥兵衛(清貞)と共に「赤海雨三将」と称されたうちのひとり。武者奉行として各地を転戦し活躍した智勇兼備の将と伝わる。小谷城落城と共に討死したと伝わっているが、それは息子で、それ以前に亡くなったという説もある。末子の海北友松は画家として大成。友松が天下人となった豊臣秀吉に謁見した際、秀吉は「綱親は我が軍法の師である」と賞賛したといわれている。
宮部継潤 みやべ けいじゅん (1528~1599) 浅井家
比叡山の僧。浅井家臣としても活動した。近江国浅井郡宮部村に城館を造り、織田信長との戦いでも活躍するが、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が敗れると、羽柴秀吉の調略に応じて与力となり、小谷城攻略に協力した。浅井家が滅亡したのちも秀吉に従い、中国攻めに参加して因幡鳥取城代となる。その後も九州征伐、小田原征伐、奥州仕置に参加、文武を問わず多岐にわたって活躍した。晩年は老齢のため隠居して秀吉の御伽衆となった。
朝倉家
朝倉義景 あさくら よしかげ (1533~1573) 朝倉家
越前の戦国大名。孝景の子。朝倉家11代当主。父の死により16歳で家督を継いだ。若い頃こそ、一族の名将・朝倉教景(宗滴)の補佐を受けていたが、教景死後も名門に恥じない統治をしていたという。室町幕府13代将軍・足利義輝が暗殺されると、弟・義昭を保護するが、上洛には消極的であったため、結局去られ、その後、義昭を奉じて上洛を果たした織田信長と敵対する。信長を裏切った浅井長政と共に金ヶ崎の退き口で信長を追い詰めることもあったが、姉川の戦いでは敗北し戦局は膠着した。その後、信長包囲網の一角を担って信長を苦しめるが、包囲網の要・武田信玄の死によって次第に劣勢になる。浅井家の居城・小谷城が信長に攻められると、援軍に向かうが、あきらめて撤退したところを刀根坂で追いつかれて致命的な敗北を喫し、最後は一族・景鏡の裏切りによって行き場を失い自害した。
朝倉孝景 あさくら たかかげ (1493~1548) 朝倉家
朝倉家10代当主。義景の父。朝倉家を戦国大名へと伸し上げるきっかけを作った7代当主・孝景(英林)にあやかって同じ名乗りをあげた。そのため、区別するのに法名「宗淳」の名で呼ばれる。一族の名将・朝倉教景(宗滴)の補佐を受け、各地に派兵して影響力を及ぼし、朝廷や幕府との繋がりも強めて朝倉家の家格を急激に向上させた。文化面でも京から公家を招くなど、本拠地・一乗谷に「朝倉文化」ともいうべき京風の武家文化を創造して朝倉家の全盛を築いた。1548年、寺院参詣の帰途に急死する。家督はまだ16歳だった嫡男・義景が継いだ。
朝倉宗滴 あさくら そうてき (1477~1555) 朝倉家
朝倉家7代当主・孝景(英林)の子。諱は教景。朝倉家随一の名将で、生涯のほとんどを戦場で過ごし「武士は、たとえ犬畜生と言われても、勝たなければならない」という言葉を残すほど合理的な考え方を持っていたといわれる。九頭竜川の戦いで一向宗30万(当然誇張されていると思われる)を相手に約1万の軍勢で完勝したのをはじめ、幕府の要請で各地を転戦して期待に応え、朝倉家の家格と武威の向上に貢献した。外交面でも長尾景虎(のちの上杉謙信)との交渉や、後に朝倉家と浅井家の絆へと繋がる浅井亮政と六角定頼の調停役をつとめている。1555年、一向一揆を討つべく長尾景虎と呼応して出陣し、快進撃を続けていたが、加賀で倒れ、一乗谷に帰還して間もなく亡くなった。織田信長の台頭を予見しており、死の間際に「三年後の信長が見たかった」と言い残したといわれる。
朝倉景鏡 あさくら かげあきら (1525?~1574) 朝倉家
義景の従兄弟。義景の代の後半では一門衆の筆頭的立場であったと考えられ、金ヶ崎の退き口や志賀の陣では義景に代わって総大将として出陣した。織田信長との戦いの中で徐々に義景との仲が険悪になり、刀根坂の戦いで義景が信長に惨敗すると、義景に自領・大野での再起を進言して六坊賢松寺に招き入れるが、織田家に寝返って義景を自害に追い込んだ。義景の死後、義景の母(高徳院)と妻子を信長に差し出して降伏。織田家臣となったが、越前一向宗との戦いで討死した。
朝倉景健 あさくら かげたけ (?~1575) 朝倉家
朝倉家臣。義景の従甥(従兄弟の子)にあたる。姉川の戦いでは朝倉軍の総大将として出陣したが、徳川家康に敗北した。その後、志賀の陣にも出陣し、その時は織田家臣・森可成を討つなど快勝している。刀根坂の戦いでは撤退する義景を助けて奮戦し無事帰国させた。一乗谷の戦いで一族・景鏡の裏切りによって朝倉家が滅ぶと織田家に降伏。その後、一向一揆との戦いに参加するが、猛攻に耐え切れず降伏してしまい、信長の怒りをかって自害させられた。
高橋新助 たかはし しんすけ (?~1573) 朝倉家
朝倉家臣。義景の側近。諱は景業。刀根坂の戦いの敗北後も鳥居景近と共に最後まで義景に付き従った。六坊賢松寺で義景が従兄弟の景鏡に裏切られ寺を包囲されると、自害した義景を介錯し、自分もその後を追って自害した。
鳥居兵庫助 とりい ひょうごのすけ (?~1573) 朝倉家
朝倉家臣。義景の側近。諱は景近。取次役をつとめていたといわれ、織田信長との戦いにも多く参加した。刀根坂の戦いの敗北後、朝倉一門の筆頭・景鏡が裏切っても最後まで義景に付き従い、六坊賢松寺で義景の自害を見届けると、一矢報いるために打って出て、景鏡と戦い討死したという。
真柄直隆 まがら なおたか (1536~1570) 朝倉家
越前の国人で朝倉家に属した。朝倉家中でも猛将として知られ、足利義昭が朝倉家を頼ってきた際には、その御前で大太刀を振り回し、豪傑ぶりを披露したという。姉川の戦いで崩れる味方を逃がすため、剛刀・太郎太刀を振るって奮戦するが、徳川家臣・勾坂三兄弟によって弟・直澄、子・隆基と共に討ち取られた。
山崎吉家 やまざき よしいえ (1516~1573) 朝倉家
朝倉家臣。朝倉家の名将・朝倉教景(宗滴)に従い、一向一揆討伐など各地を転戦し、教景死後には越後・長尾景虎(のちの上杉謙信)との交渉役を引き継いだ。姉川の戦いをはじめ織田信長との戦いにも多く参加し、志賀の陣の前哨戦・坂本の戦いでは織田家臣・森可成を討ち取った。刀根坂の戦いで殿(しんがり)をつとめ、5、6度留まって奮戦し、一族のほとんどと共に討死した。